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よんいちぜろ
日々のこととか、自分勝手な呟きとかそんなん。
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漫画とか、ゲームとか、アニメとか、ラノベとかに触れると、すごーく好きだったキャラクターが死ぬこととかあるじゃないですか?
ゲームだとたまーにルートによっては救えたりするけど(例:イオス、ゼロス、グレミオ、ナナミ)でもやっぱり救えないキャラも多いじゃないか。バノッサさんとかさ。キバとかさ。リオン……とかさ……笹塚さん……とかさ……サイ……とか……ばか、泣いてねーよ!
そういうキャラって、頭の中でいろいろ考えたり、主人公がこういう行動をとっていたら……とか思ったりしても、やっぱり救えないよね。
なぜなら、そのキャラがそのキャラであるために必要なことだからだ。
その人がどうやって生に決着をつけるのかって、やっぱり大事だと思う。

生きているものには死が必要だ。終わりがないものはおそろしい。
だけど、死がおそろしくないかと聞かれたらとても困るよね。
「必要」であることと、「好ましい」ことは同義ではないから、とても困る。
ソクラテスじゃないけど、死んだ後にどうなるのかもわからないのに、どうして死がイヤなものだと言い切れるのか。おそろしいと言い切れるのか。または、好ましいものだ、おそろしくないものだと言い切れるのか。ふしぎだ。

でもわたしは、やっぱり死ってイヤだなあって思ってしまうんだよ。
好きなキャラクターには「生きててほしいな」、とか、エンディングで「どうしてあのキャラはいないんだろう」とか。
ゲームとかだと、敵チームにも好きなキャラがいたりすると、ほんと、正義ってなんなのかわかんなくなってしまう。救えないもの。まあそれは別の話なんだけど。
死がなんなのか、ぜんぜんわかんない。わたしは死んだことないもの。
でも死にそうになると苦しいし、残されると悲しい。生きていてほしいと思う。ふしぎだ。
生きていることそのものにはそれほど価値はないと思うんだけど、その人が生きていく、そのことには価値があると思うんだ。
えーとこんがらがったけど、要するに、生きてようが死んでようが、誰かの存在には価値があるんだよ。もっと言えば、可能性かな。
ただ生きているだけで価値のある人間なんかいないと思う。それはただの無駄だから。
けど、その人が何かをする。何かを残す。誰かと生きる。そういうものに価値があって、それは生きていようが死んでようが変わらないと思う。何かを残せばそれはすごい人だし、大切な人はいつまでも大切だし、一緒にすごした日々はやっぱりすてきなものだと思うんだよね。
死んで美化される、とかさ、よく言うけど、それって不思議な話だよね。
一緒に生きてきて、いろいろ経験して、自分でつかんだその人の価値は、死んだくらいで揺らいでしまうようなものなのか。
いや、死ぬってのはたいへんなことなんだけど、でも、それって、生きていないその人には価値がない、あるいはその人が生きたことに価値がないって言うのに等しい気がする。
でも、わたしの理論でいくと、生きていようが死んでようが価値は変わらないはずなのに、死んでもかまわないっていうのとは違うじゃないか。やっぱり生きててほしいって思うじゃないか。
生きている人と死んでいる人が同価値かと聞かれると微妙だろ?まぁ、人によりけりだから、生きてようが死んでようが価値は変わらない=その人の価値はそのまま、と考えられるかもしれないが。
生きていれば、いろいろ増えるわけじゃないか。
まあその人によると思うけど、やっぱりより価値のあるものに思えるような気もするんだよな。死ぬと価値が落ちるわけではなく、生きていると価値が上がるかんじ。
生きていることそのもので価値は付与されないんだ。その人が生きて何かをすることによって価値が上がる。死ぬともう上がらない。だから、生きているほうが価値がある気がする。
でもだから生きててほしいのかっていうと、そうじゃないんだよな。より価値があるから生きててほしいわけじゃない。
ただ生きててほしいだけなんだ。
人が生きる、死ぬに、価値や理由を求めるのはばかばかしいことなのかもしれぬなぁ。

昔葬祭会館で働いていたころに、人は死ぬと、魂になって、生きてきた時の罪の分だけ痛い思いをして、いつまでもいつまでも階段を上っていくような苦しみを味わうんだと聞いた。
それを少しでも軽減するために……詳しくは覚えてないんだけど、まぁ、道しるべの光のように、お経というものがあるんだそうだ。
だから残された人は、出来るだけ、「あの人が少しでも早く新しい人生を歩めますように」とか、「できるだけ苦しい思いをしなくて済みますように」とか願いながら、お経を唱えてあげるべきだと。
でも、それは反面、残された人のためのものでもあるんだよ、と。
残された人はその人にもう何もすることが出来ない。これまでの恩を返すことも、何かを言うことも、これから何か楽しいことを分け与えてあげることも、悩みを打ち明けることも出来ない。
だからせめて、苦しい思いをする時に少しでも助けになれる、っていう指針を示すことで、死を受け入れたり、生きることに、自分が生きていることに価値を与えたりするものなのだと。
まぁ、葬儀は故人のためでもあり、遺族のためのものでもあり、だからこそ廃れずに残った風習なんだろうが。

それは置いておいて。
死ぬとどうなるかわからないけど、まぁある思想に基づくと、死んだ後には苦しい思いをするらしい。
じゃあ死そのものが苦しいのか、ときかれると、これはまた微妙だよね。
首をくくりゃあ、そりゃ死ぬまで苦しいだろうよ。
でも死っていうのは一瞬のことなのか、そこに至るまでのすべてを言うのか、どうなのか。
首をくくったから苦しいのか、死ぬから苦しいのか。
首をくくったから苦しいのだとしたら、死ぬことによって苦痛が終わるのなら、それはすなわち解放ではないか。
眠るように死んだ方は死が苦しかったのだろうか?
死が明確に負のものであるという根拠はないんだ。残されたものは悲しいから負かもしれないけど、当人にとってはどうなのかわからない。
ならなぜ死をネガティブに受け取ってしまうのだろうか。
死ぬことで始まる何かもあると思うんだ。たとえば、来世とか?わたしは興味ないけど。
わたしたちは死をネガティブに受け取り、死んでしまった人を可哀相だと思い、死にたくないと思う。死がなんなのかも知らずに、だ。
なんなのか知らないからこそおそろしいのかもしれないけど。でも、それでいったら生きるということもなんなのかわからないよね。おそろしいよね。いったことない場所も知らないよね。おそろしいよね。結婚したあとどうなるかもわからないよね。おそろしいよね。
わからないことはたくさんあるのに、どうして死に対してほかのもの以上にネガティブなものを抱くのだろう。おそろしい、悲しいと受け取ってしまうんだろう。
わたしの理論でいくと、死ぬことによって価値が下がるとかそういうことはないはずなのに、死ぬと悲しい。
いったい何が悲しいんだろう?死んだことそのもの?そもそも死ってどのこと?死んだ瞬間?あるいはそこまでの経緯?経緯だとしたら、それはまるで、その人が生きてきたことに対するものみたいな感覚もあるよね。
それとも可能性がなくなってしまったこと?でも、死んでその人の可能性がゼロになると断言できるわけじゃないじゃないか。死後評価される人だっている。
そうなんだよなあ、死んで価値が上がることはないはずなのに、死ぬことが名誉だと思う人もいる。死んだことに対して「よかったね」という人もいる。……たとえば、病気でずっと苦しんでいた人に対して、とかね。
たとえ誰かが死んでも誰かが生きていてくれれば一人ではないのに、さみしいと感じる。それはその人が特別だからだろう。その人の代わりがいないからだ。それはその人自身の揺るがない価値のはずなんだ。
でもその価値は、果たして「生きていた」ことに対するものなのか、「死ぬまで」に与えられるものなのか、「その人自身」に与えられたものなのか。
生きていたことに対するものならば、その人は死ぬと価値を損なうことになるのか?
死ぬまでに与えられるものならば、死んだらもうその価値は不変なのか?
その人自身に与えられたものだとしたら、死んだらその人自身とは言えないのか?価値はどこまで付与されるものなのか?


死がネガティブなものだと知っているのに、命を奪う人もいて、死にたいと願う人もいて、生きていることの価値がわからない人もいて。
死と生、そしてその人自身に対する価値感って、どうなんだろう。どうかかわってくるんだろう。
生きていることに価値があるのか、ないのか、その答えがないと生きていけないものなんだろうか?
生きていることに価値があるのかどうかと、自分に価値があるのかどうかを、どうしていっしょくたにしてしまうんだろう。
自分に価値がないと思う人は、果たして他人の生に対して価値を感じるのだろうか?そうだとしたら、どうして自分に価値を感じられないのだろう。そうでないのなら、どうして自分だけ特別にしてしまうんだろう?
生きることに価値がなくとも、自分が存在することに価値はあるかもしれないじゃないか。
そもそも価値というものがなんなんだ?自分で与えるものなのか?誰かが与えるものなのか?誰かが与えるから自分にとっても大切なもの?
価値観というものは、人それぞれじゃないか。
誰かにとって意味のある死でも、誰かにとっては無意味なものかもしれない。誰かにとっては無価値な生でも、誰かにとっては価値ある生かもしれない。
自分を信じられないのなら、自分の周囲はどうなんだろう?自分を大切に思ってくれている誰かのことも信じられないのか?その人の中にある、自分の価値は?
まぁ、自分を価値あるものに思えない時点で、その人には価値はないのかもしれないけれど。でも、ないと言い切るには、その人がもつ可能性とかは、大きすぎると思うんだよねー。
そして、価値観はそれぞれだと言ってしまうと、命を奪う人にとって、命はその程度の価値のものなのだと認めることになる。命を軽んじることを肯定することになりはしないか?
むずかしー。

そもそも、「死」と、「死ぬこと」は同じなんだろうか?
死はもっとこう、なんか、概念的なものだと思うんだ。死ぬことは、どちらかというと行動?みたいな?
でも、「死」も「死ぬこと」も同じ結果。命がなくなるということだ。
じゃあ同じなのか?それとも違うのか?

ううん、ぐちゃぐちゃしてきた。
死ってなんだ?その価値はなんだ?生きるってなんだ?その価値はなんだ?人ってなんだ?その価値はなんだ?
中学生みたいだなぁ。
しかし考えることはとても楽しいよ。
結論として、わたしは価値があろうがなかろうが、生きるし、死ぬよ。これは間違いない。


まぁどうしてこんなことを考え始めたのかって、傑兄ちゃんのせいだよ!!!!!!!1

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